ムム

自分が無知なのを忘れないための備忘録

中味と形式

どうも、ドイツの酒飲みです。10月は運動会で酒が飲めるぞ。「本当は酔っ払って何か嫌なことでも忘れたいんじゃないの?」とか言われるとちょっぴり腹立つのは酒好きあるあるでしょうか。酒もタバコも精神的状態の良好な時に嗜むから美味しいのであって、美味しくなければ意味はありませんね。

というわけで今日は少しお酒を入れながら面倒な思想をぶちまけたいと思ってるので、お付き合い願います。

 

最近常々考えているところに、そもそも何故いまだに我々は何世紀も前の音楽を、さもそれが当然かのように、たった一回の演奏のためにCDやレコードが何枚も買えるような大金を払ってありがたく聴いているのか、そして一生を注ぎ込みながらそれを演奏という難しい形で再現する必要があるのか、という疑問があります。

そしてこの疑問に演奏家が真剣に取り組まない限り、クラシックを聴く人は減り続けるのではないか?そもそもクラシック音楽を聴く人が減るということ自体、果たして本当に悪いことなのだろうか?とすら思います。もはやクラシック音楽大国のドイツですら、ステージから一瞥しただけで客席の大半が白髪頭なのはすぐわかる、そんな状況なのです。例えベルリンフィルのような有名なオーケストラですら経営できなくなるのも時間の問題だと言い切れるほど深刻です。

 

さて、最近夏目漱石の文字起こしされた講演集を読んでいるのですが、その中の"中味と形式"という、生活の内容や複雑で曖昧な事象に対してそれを外から扱うために作られた"形式"、この関係性を指摘する論説がありまして、その中にこのような文章がありました。

(前略)もし形式の中に盛らるべき内容の性質に変化を来すならば、昔の型が今日の型として行わるべきはずのものではない、昔の譜が今日に通用して行くはずはないのであります。例えて見れば人間の声が鳥の声に変化したらどうしたって今日までの音楽の譜は通用しない。四肢胸腰の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などはれなければならないでしょう。人間の思想やその思想に伴って推移する感情も石や土と同じように、古今永久変らないものと看做したなら一定不変の型の中に押込めて教育する事もできるし支配する事も容易でしょう。

(中略) - それならなぜ徳川氏がびて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方でむからなんでしょう。なるほど一時は在来の型でえられるかも知れないが、どうしたって内容にわない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う

漱石文明論集 (岩波文庫)

漱石文明論集 (岩波文庫)

 

 

以上の考え方は今回のテーマの軸を担うのですが、結論に急ぐ前に少しクラシック音楽における"意味"、上の講演にあてはまるところの"中味"の特殊な形に関して少々長い補足をしたいと思っています。

 

かつて名指揮者レナード・バーンスタインがノーム・チョムスキーの生成文法等をもとに独自の音楽論を構築したように、音楽を言語として見立てる考え方は比較的広く定着していますが("音楽は世界中の人に伝わる言語"みたいなフレーズも含めて)、そもそも言語というのは"内容"が先立ち、それを表すための単語、文法というのが後付けされます。例えば、テープを巻いて戻すという"内容"に対し"巻き戻し"という単語が作られ定着し、時代が変わってもはやテープを使わない映像や音楽メディアが席捲しているにも関わらずその単語のみ残っている、このような事象は探せばいくらでも出てくると思います。"茶碗"だって今はご飯を盛ってますからね。この点はすでに先程の夏目漱石の文に当てはまる部分であります。

 

さて、音楽を言語と見立てた場合、単語とか文法にあたる音楽語法というのはすぐに見つけられますが、それらが言語と同じように必ずしも決まった特定の内容、実質、意味を表すとは断言できないのです。

例えば、C - D - E - F#という音型があったとします。これがどのような内容を表すのか、この音型が現れる前後関係や縦の機能和声も含めまさに無限大の意味を持ちます。口笛で何も考えずに吹けば単なる音階の一部にも聞こえる音型ですが、僕の場合この音型を見かければ"Es ist genug"と頭の中で響きます。

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これはバッハのコラールで"主よ、私はもう十分です、願わくば我が魂をここから御所に連れて行ってください"という歌詞です。音楽と言語の相違の話をしてるときに歌詞付きの曲を出すのはいささか悪手ではありますが、続けて次の曲を聴いてください。全曲聴いていただきたいところですが、言及したい箇所は19分43秒から始まりますので、各自飛ばすなり律義に聴くなりしてください。面白い曲なので。

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この曲は、恐らく多少なりともクラシック音楽が好きで研究心のある方なら誰でもたどり着くであろう、アルバン・ベルクが1935年に書いたバイオリン協奏曲、遺作です。

ベルクは19世紀末のウィーンの生まれで、前回のクルト・ヴァイルとロッテ・レーニャの記事でもチラッと触れたシェーンベルク率いる"新ウィーン楽派"の重要人物です。

この曲は、ウィーンの大作曲家であったグスタフ・マーラーの夫人アルマ・マーラーが、旦那グスタフの亡き後、ヴァイマルにバウハウス大学を設立したヴァルター・グロピウスと結婚し、その間にもうけた娘マノン・グロピウスの夭逝を受けて書かれました。ベルクは我が子のように可愛がっていたマノンの訃報を聞き、すぐさま制作途中であったオペラを中断しこのバイオリン協奏曲に取り組みましたが、その途中で虫刺されから敗血症を患い、彼もまたこの曲の完成後すぐに亡くなりました。

 

ベルクの師のシェーンベルクという作曲家は調性から離脱し、音楽における"美しさ"を求めないという前衛的な思想で無調の技法を追い求め、1921年に1オクターブ内の12音を均等に使う"十二音技法"を完成させ世に出しました。ベルクも師に倣いこの技法を使って作曲しましたが、ベルクはしばしば十二音技法の中に調性を潜ませ、あたかも前衛的な技法によって過去の遺物である調性が抑圧されているかのようなロマン的な手法を独自に編み出し、師弟間でその扱い方に関して衝突があったともいわれています。成熟し命の賭された最もロマン主義的な美しいバイオリン協奏曲は、皮肉にも音楽の響きの美しさから離れるための技法によって書かれているのです。

 

このバイオリン協奏曲の副題は"ある天使の思い出に"であり、無論天使とはマノンのことを表しています。第一楽章はマノンの現世での肖像であり、第二楽章は彼女の闘病、昇天を表現しています。

そして二楽章の決定的なタイミング(上の動画で19分43秒のところ)で先程の"Es ist genug"のはっきりとした引用が入ります。無調の混沌の中から徐々に音型が形成され、やがて暗闇に光が差したようにコラールが入ります。ソロバイオリンの楽譜上には、声を発して歌うわけではないのに関わらず、引用元の歌詞が書かれています。

この"主よ、私はもう十分です"という言葉無き歌は、果たして誰の声で歌われるのでしょうか。少し考えただけで深淵を覗いた気分になりませんか?作曲の過程や背景を少し知っただけで、あのたったいくつかの音が、音階の一部のようなあの音型が、抽象的でいてかつ複雑な恐ろしく深い意味を持ち始めます。

 

さて、話を戻します。こんなに力を入れて書いたけどそもそもこれはベルクのバイオリン協奏曲に関するブログじゃないんです。

 

聴衆は、その楽曲に関する知識が一切なくても、聴いた際には喜怒哀楽のような大雑把な感情を想起することが可能であり、そこからさらに作曲家の思想、作曲に至る過程や背景、楽曲における音楽語法の使われ方、引用等、様々な知識を得ることによりそのぼんやりと想起された感情の輪郭を掴み、ディテールを少しずつ理解していくことが可能となります。

しかし音楽の意味を完全に理解しきることは不可能です。これが言語との最大の相違となります。言語は内容をできる限り正確に相手に伝えるためのコミュニケーションツールですが、クラシック音楽、特に歌詞を持たない器楽曲は作曲家の意図していた意味を伝達する上で正確さとは無縁であり、作曲家・聴衆間のコミュニケーションツールとしては致命的な誤解を招くこともしばしばあります。また介在する演奏家は聴衆側ではなく作曲家視点に立ち、作曲家の意図をできる限界まで理解した上で演奏する必要があります。それを失敗すると、音楽の意味を狭めて、もしくは歪めて聴衆に届けてしまう可能性を孕んでいるのです。

 

音楽の持つ"曖昧な内容を言葉に拠らずそのまま形にする"という特性は非常に有用で、音楽家もその特性を理解した上で、言葉では検閲を受けるような政治的な思想や、プライドが邪魔をして伝えることができない想い人への恋情のように、ロマン派三大要素の"距離・不在・後悔"によって表される行き場のない雑多な思いを"音楽"というブラックボックスに詰め込むことができました。それを聴く聴衆もまた、音楽の中に、作曲者と同じように抱いていた行き場を失った思想を見出すのです。つまり、作曲家は言語の発言者というよりも、音楽を共有する聴衆の一人という立場の方がふさわしいのです。

これが長い間クラシック音楽が聴かれている理由です。誤解を恐れずに一言にまとめれば、あらゆる"言いたいけど言えないこと"を詰め込んだのがクラシック音楽であり、聴衆が"得たい"と望む感情が、曖昧な姿のままクラシック音楽の中から現れてくるのです。この中身の曖昧さが、何百年も消費され続ける骨董品の魅力です。

"言いたいけど言えない"、という状況は歴史を振り返ればいくらでも見つけられます。18,19世紀は常に教会や貴族階級という存在のために身分差があり、タブーとされる言動も多々ありました。シューベルトのような芸術家はウィーン体制下では検閲を受ける対象でしたし、20世紀に入れば国家間の戦争も激しさを増し言論は統制されることもありました。そのような状況で彼らは音楽を使い自分たちの思想を音楽にし、それを聴衆と共有してきました。

 

さて、現代に戻りましょう。

戦争は終わりました。思想はよほど酷く他人を傷つけない限りは自由で、平等です。政権を批判することも、遠く離れた恋人にLINEを送ることも、創作におけるエロ・グロ・ナンセンスの言葉も、少なくとも日本ではすべて許されています。中味は変わりました。

歴史を遡っても、ここまで言いたいことが言える状況はほとんど無かったのです。それはつまり、もはやかつてのロマン派音楽やそれに類する音楽が必要とされる時代ではないのではないか、ということです。恋愛や友情、政治思想を内包する音楽はそれぞれ現代のポップスやヒップホップ、ロック等言葉を用いた音楽が優秀であり、それらは何百年も昔のものではなく"今"生きる若者の心情、つまりは現代の聴衆の中味を反映したものです。古いクラシック音楽の、それも言葉を用いない器楽曲はこれには絶対に敵わないのです。

もちろん現代のポップスも弱点を持ちます。言葉によって内容を明確に表現できる反面、その中身を極めて限定的に狭めてしまい、最初から共感できない、もしくは成長や思想の変化によって特定の曲に共感できる層から漏れ出てしまうというケースが多々あることです。そこの点において松本隆はインタビューにおいて

誰か隣に女の子が来てさ、「私あなたのことが好きなんです」って100回言われてもさ、嘘かもしれないじゃん。どうやって"愛してる"とか"好き"っていう言葉を使わないでそれを伝えることができるのか、それがわかれば歌になる。

という事を言っていました。これはまさにロマン派的歌曲の思想であり、敢えて中味をぼかすことにより聴衆が楽曲に求め得る思想に幅を持たせることが可能なんです。従って現代において仮に持続性のある音楽を作るのなら、如何に大多数の聴衆が抱く未消化の普遍的な思想を発見し、それをぼかしながら音楽という形式を与えることができるか、ということになります。反対に短くても大きくヒットしたかったら、ぼかさずに端的に言葉にして叫べばいいんです。

 

さて。自分のような凡愚な音大生は、それじゃあいったい果たしてこれからどんな音楽を弾いていけばいいんだ?と思うのですが、これに関してももう答えは出ていると思います。とにかく過去の形式を思考停止的に受け継ぐのではなく、そこから抜け出し現代音楽の中味を理解し、演奏することです。21世紀に入っても、西洋クラシック音楽の系譜にある技法によって書かれ発表された音楽はごまんとあるのですが、僕ら音大生ですらそれらを弾く機会はほとんどありませんし、もはや存命の作曲家の作品を視界に入れることをまるで拒むような音大生も少なくありません。

本来ロマン派音楽も、その前の古典派も、バロックも、以前の音楽の形式が人間の中味の変化に耐えきれずアップデートされた結果生まれたものであったはずです。まるで演奏家だけがその過去の形式に囚われたような状況であるのは、いささか問題であると言えます。

新曲を理解するには政治や歴史等知識として必要なことはたくさんありますが、それはベートーヴェンやチャイコフスキーにも同じことが言えます。むしろ過去の作曲家の知識を知るほうが大変じゃないですか?同じような労力が必要なら、現代人の中味のための音楽をやらない道理がないですよね。

 

手始めに、聴衆としても、こういうところから始めるのはどうでしょうか?どれもこの数年間のうちに書かれ、初演された曲です。無知識でこのような音楽を聴き、得体の知れない感情を得ることができるのは、今を生きる我々の特権でもあるはずです。あとお酒を飲みながら現代音楽を聴くのはとてもスリリングで楽しいので是非お試しあれ。

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↓最初のサウンドロゴがめちゃくちゃうるさいので音量下げてから聴いてください

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